たこの吸出し発売開始年:1913(大正2)年
「はれものを切らずに治したい」という多くの声に応えようと誕生した青膏。
『たこの吸出し』の誕生
町田製薬株式会社の創業者、町田新之助は明治19年に千葉県銚子市で7人兄弟の長男として生まれ、明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業後、開業医の書生として奉公しました。大正2年27歳の時、現在の北区田端に「町田可陽堂」の商号にて製薬業と薬局を起こし、『たこの吸出し』を処方した時に始まります。書生として奉公するかたわら、患者の中に(特に女性)おでき等の「はれものを切開せずに治したい」という強い希望者が沢山いたため、何とか切らずに膿を排膿する方法はないかと考え『たこの吸出し』の誕生に至った訳です。
震災と苦難
その後、順調に経営していた「町田可陽堂」でありましたが、大正12年に関東大震災に遭い、建物他工場を全焼し、製品の製造すらおぼつかない苦境に陥りますが、大正13年3月、場所を神田山本町に転居し、『たこの吸出し』の製造販売を再開しました。しかし、この間の痛手は大きく、負債をかかえる事になりましたが、大正15年8月に現在の品川区大井金小町に転居し、社員一丸となり負債の返済にあたりました。また、これと前後して、日本橋玉置薬業(株)を当社の総代理店として一任し、全国販売に乗り出しました。
『たこの吸出し』と貝殻容器
定価50銭】
しかし当時は、現在のようなプラスティック容器が手に入る訳はなく、苦慮した結果、木更津の蛤漁師の網元と話し合い、蛤の加工業者に頼み込み、貝殻を取り寄せたのでした。これにより昭和30年前後までは、『たこの吸出し』と「蛤の貝殻」は切っても切れない縁になったのです。
復興と対応
昭和20年10月、終戦からの復興をめざして工場の再建と製剤・販売面の復活に懸命な努力を重ね、直接、全国の家庭薬問屋を廻り販売の契約を取り付けたのでした。
昭和41年に創業者 町田新之助が死去し、次男の町田弘が社長に就任しました。伝統薬を現代の薬局にいかに対応して行くかがこれからの課題です。昭和48年以降「水銀軟膏」「ホウ酸軟膏」「ホウ酸分包」と相次いで厚生省令により製造販売の中止という、憂き目にも合いましたが、『たこの吸出し』の一般薬としての根強い支持、また各問屋にも絶大な協力もいただき乗り切ったのです。
『たこの吸出し』についての逸話
『たこの吸出し』についての逸話が、「救いの神(朝日新聞社編 遠藤豊吉著)」で紹介されています。著者が小学校5年ごろ、お尻と脇腹の二ヶ所に大きな吹き出物ができ、体操の時間の跳び箱で、開脚跳び越しを行う段になって思い切って股を開くことが出来ません。失敗した場合には脳天まで突き抜けるような痛みに襲われる予感がし、順番がきてもぐずぐずしていました。
その時、先生が「しょうがねえヤツだ。あばちゃん(用務主事のおばさんのこと)に、「『たこの吸出し』を塗ってもらってこー!」といわれ、恥ずかしい思いを我慢して塗ってもらった。ところが何日かして、膿の根が吸い出され、やがて患部がふさがり、思わず「バンザイ」と叫びたくなる開放感といったらなかったと記述されています。
新製品の開発
平成6年に、かねてからの懸案であった新製品『ユリア軟膏(20%尿素配合軟膏)』の市販を開始し、何とか一般大衆薬として独り立ちできる商品を目指し努力しております。平成5年に3代目社長 町田美香子が就任し、創業から90年になろうとしている今、今後の展開も視野に入れて社員全員で心を一つにし、鋭意努力を惜しまずに伝統薬を守り続けていきたいと強く考えております。
商品の特徴
- 有効成分中に含まれている硫酸銅の腐蝕作用とサリチル酸の角質軟化作用により、はれものの口を開き、膿を排泄して患部を治します。
第2類医薬品 ※パッケージは変更する場合がございます。 | |
商品詳細(一例) | たこの吸出し |
---|---|
効能・効果 | 化膿性皮膚疾患、よう、ちょう等のはれものの吸い出し |
用法・用量 |
|
成分・分量 |
|
商品構成 | 10g |
※使用上の注意をよく読み、用法・用量を守って正しくお使いください。
商品に関する詳細情報は、町田製薬株式会社の企業サイトで、ご確認ください。